大友氏の記事一覧
2015年1月15日 豊後大友氏について(10)-宗麟の時代⑥:宗麟の弟、大内家を継ぐ
義鎮(よししげ、宗麟)が大友家当主となった1年後の1551年、大友氏と主に筑前、豊前を舞台に長い間争ってきた中国の雄、大内氏に大きな事件が起こります。当主大内義隆(よしたか)が家臣の陶隆房(すえたかふ...
2015年1月10日 豊後大友氏について(9)-宗麟の時代⑤:二階崩れの変 第五
このように義鎮(よししげ、宗麟)が大友家の当主となった経緯はあまりにも劇的ですが、この二階崩れの変は謎につつまれています。 この事件については、①入田親誠(にゅうたちかざね)と義鑑(よしあき)の後妻...
2015年1月7日 豊後大友氏について(8)-宗麟の時代④:二階崩れの変 第四
義鎮(よししげ、宗麟)は、「二階崩れの変」の際、別府に湯治に行っていました。義鎮は、事件の情報収集を行った後、義鎮廃嫡計画の首謀者で、「二階崩れの変」の原因をつくった張本人である入田親誠(にゅうたちか...
2015年1月4日 豊後大友氏について(7)-宗麟の時代③:二階崩れの変 第三
義鎮(よししげ、宗麟)の廃嫡に反対した四人の家臣のうち、命令通りに上原館にやってきた斉藤、小佐井(こざい)の両人を義鑑(よしあき)は家臣に待ち伏せさせて謀殺します。残る田口、津久見の二人はこの時、嫌な...
2015年1月3日 豊後大友氏について(6)-宗麟の時代②:二階崩れの変 第二
大友家第二十代義鑑(よしあき)には三人の息子がいました。長男が義鎮(よししげ、後の宗麟)、二男が晴英(はるひで、後の大内義長)、三男は塩市丸(しおいちまる)といいました。このうち、塩市丸は後妻の子供で...
2015年1月2日 豊後大友氏について(5)-宗麟の時代①:二階崩れの変 第一
[caption id="attachment_610" align="alignleft" width="300"] 現在の上原館跡1[/caption] [caption id="attachm...
2015年1月1日 豊後大友氏について(4)-なぜ大友氏が豊後の守護となったのか②
後白河法皇と源頼朝の共通の敵であった平家が滅亡すると、この両者の関係が急速に悪化、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は源義経を味方に付け、鎌倉幕府にゆさぶりをかけようとしますが、これが上手く行かず、義経...
2014年12月31日 豊後大友氏について(3)-なぜ大友氏が豊後の守護となったのか①
三代大友頼泰(よりやす)は現地の最高指揮官として、1274年(文永の役、ぶんえいのえき)、1281年(弘安の役、こうあんのえき)の2回に及ぶ蒙古襲来を九州の武士を中心に何とか凌ぎました。元寇という国家...
2014年12月30日 豊後大友氏について(2)-大友氏はどこから来たのか
豊後大友氏は、1196年に豊後に下向したとされています。大友氏はもともと相模国大友郷(今の神奈川県小田原市に)の出身です。大友郷は大友氏初代大友能直(よしなお)の母の故郷で、能直はそこで幼少期を育ち、...
2014年12月29日 豊後大友氏について(1)
私は歴史好きです。特に今、興味があるのが、わが故郷、大分県(昔は豊後と呼ばれていました。現在の中津市・宇佐市は豊前に含まれます)において、鎌倉時代の初めから室町時代の末期、つまり戦国時代まで守護をつと...