豊後大友氏について(3)-なぜ大友氏が豊後の守護となったのか①
2014年12月31日
三代大友頼泰(よりやす)は現地の最高指揮官として、1274年(文永の役、ぶんえいのえき)、1281年(弘安の役、こうあんのえき)の2回に及ぶ蒙古襲来を九州の武士を中心に何とか凌ぎました。元寇という国家存亡の危機は、頼泰にとっても人生最大の試練であったはずです。しかしながら、蒙古という日本共通の敵の出現は結果的に頼泰に権力を集中させ、豊後をまとめるという点では好都合だったのではないでしょうか。この大友氏三代頼泰以降、1593年の改易まで大友本家は豊後を本拠地とします。
時代はさかのぼりますが、では、何故、頼泰の祖父で頼朝の側近中の側近であった大友能直(よしなお、初代)が豊後の守護に任じられたのでしょうか?これは当時の豊後の状況と大きな関係があります。
平安時代末期、平氏と源氏の争いが激しくなり、平氏は源氏の木曾義仲(きそよしなか)に京都を追われると、九州の大宰府(だざいふ、現在の福岡県太宰府市にある)に逃れます。この時、当時九州で最も強力な寺社勢力であった宇佐神宮(現在の大分県宇佐市にある)も平氏を保護します。一方、平氏と対立していた後白河法皇(ごしらかわほうおう)は、大神氏(おおがし、緒方氏、臼杵氏、佐伯氏等の親族を中心とする豊後の武士一族)を中心とする豊後武士団に平家討伐を命じます。日頃から平氏に不満があった豊後武士団は、その命を受け、反平家の狼煙(のろし)をあげます。そして、緒方惟栄(これよし)を中心とする強力な騎馬軍団である豊後武士団は、肥後・筑後ルート、玖珠・日田ルート、宇佐・豊前ルートの三方から大宰府にむけて進軍し、一気に大宰府を陥落させます。たまらず、平氏は海路、讃岐(今の香川県)の屋島に逃れますが、源義経の活躍により屋島も追われ、1185年、最後は壇ノ浦で滅亡します。この壇ノ浦の戦いでも源義経が大活躍しますが、それを強力に補佐したのが豊後武士団なのです。このように豊後武士団は、騎馬軍団と水軍の両面を組織し、源氏の平家討伐に大きく貢献した九州最強の武士団だったのです(当時、緒方惟栄は九州武士団の棟梁でもあった)。
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