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大友宗麟の記事一覧

2015年1月31日 豊後大友氏について(15)-宗麟の時代⑪:南蛮文化と豊後府内の発展

宗麟の時代は豊後の首都、府内(ふない)が発展し、南蛮文化が花開いた時代でもありました。府内(現在の大分市)は、外国船が行き交う国際貿易都市として発展し、堺や博多と並ぶ都市となります。 全盛期の府...

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2015年1月27日 豊後大友氏について(14)-宗麟の時代⑩:九州六か国の守護へ

義鎮(よししげ、宗麟)は大友家の家督を継いで間もなく、豊後(現在の大分県の大部分)、筑後(現在の福岡県南部)に続き肥後(現在の熊本県)も統治下に置きますが、次に狙いを定めたのは肥前(現在の長崎県と佐賀...

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2015年1月24日 豊後大友氏について(13)-宗麟の時代⑨:肥後菊池氏の滅亡

豊後の隣国肥後(今の熊本県)では、南北朝の時代前後から菊池氏が力をつけていました。菊池氏は一貫して南朝側につきましたが、南朝側が敗れるとその勢力は停滞します。その後、一族に家督相続をめぐる争いが続いた...

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2015年1月20日 豊後大友氏について(12)-宗麟の時代⑧:博多の支配 第二

鎮西探題は鎌倉幕府滅亡の1333年まで続きます。鎌倉末期になると元寇の兵役に対する恩賞の少なさや執権北条家の専制政治に対して全国の武士は反感を抱くようになりました。大友氏も鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天...

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2015年1月17日 豊後大友氏について(11)-宗麟の時代⑦:博多の支配 第一

大内氏を義鎮(宗麟)の弟が継ぐことによって、長きにわたって続いていた大内氏との戦いに終止符が打たれました。これにより、大内氏と争ってきた博多の支配権を完全に大友氏が掌握します。この当時、博多を支配する...

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2015年1月15日 豊後大友氏について(10)-宗麟の時代⑥:宗麟の弟、大内家を継ぐ

義鎮(よししげ、宗麟)が大友家当主となった1年後の1551年、大友氏と主に筑前、豊前を舞台に長い間争ってきた中国の雄、大内氏に大きな事件が起こります。当主大内義隆(よしたか)が家臣の陶隆房(すえたかふ...

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2015年1月10日 豊後大友氏について(9)-宗麟の時代⑤:二階崩れの変 第五

このように義鎮(よししげ、宗麟)が大友家の当主となった経緯はあまりにも劇的ですが、この二階崩れの変は謎につつまれています。 この事件については、①入田親誠(にゅうたちかざね)と義鑑(よしあき)の...

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2015年1月7日 豊後大友氏について(8)-宗麟の時代④:二階崩れの変 第四

義鎮(よししげ、宗麟)は、「二階崩れの変」の際、別府に湯治に行っていました。義鎮は、事件の情報収集を行った後、義鎮廃嫡計画の首謀者で、「二階崩れの変」の原因をつくった張本人である入田親誠(にゅうたちか...

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2015年1月4日 豊後大友氏について(7)-宗麟の時代③:二階崩れの変 第三

義鎮(よししげ、宗麟)の廃嫡に反対した四人の家臣のうち、命令通りに上原館にやってきた斉藤、小佐井(こざい)の両人を義鑑(よしあき)は家臣に待ち伏せさせて謀殺します。残る田口、津久見の二人はこの時、嫌な...

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2015年1月3日 豊後大友氏について(6)-宗麟の時代②:二階崩れの変 第二

大友家第二十代義鑑(よしあき)には三人の息子がいました。長男が義鎮(よししげ、後の宗麟)、二男が晴英(はるひで、後の大内義長)、三男は塩市丸(しおいちまる)といいました。このうち、塩市丸は後妻の子供で...

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