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豊後大友氏について(24)-高橋鑑種の謀反②

2015年3月4日

高橋鑑種(あきたね)は毛利と結び、1667年に大友家に謀反を起こしますが、その原因は様々語られています。

・1561年の第四次門司城の戦いに敗れた大友宗麟(そうりん)は、毛利を討つべく、鑑種にその準備を命じました。大役を命じられた鑑種は名誉に思い、周囲の有力緒家を大友方に引き入れ、毛利討伐のため準備万端整えたが、宗麟が幾度となくそれを中止し、そのたびに面子(めんつ)を失い、宗麟に対する不信感が募っていったという説

・大蔵一族を結集して、豊築独立をはかったという説

・山口暮らしが長かったため、毛利の家臣らと既に親しく、互いに尊敬しあっていたため結託したとする説

・宗麟が、1553年に鑑種の実兄一万田鑑相(いちまだあきすけ)、実弟一万田鑑久(いちまだあきひさ)を謀反のかどで討ち、鑑相の美貌の妻を側女にしたことを恨んでいたとする説

いずれにせよ、宗麟は当初、鑑種の謀反を信じなったようです。宗麟はその事実を知ると大いに怒り、戸次鑑連(べっきあきつら、後の立花道雪)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)、吉弘鑑理(よしひろあきまさ、高橋紹運の父、立花宗茂・吉弘統幸の祖父)、斉藤鎮実(しげざね)、吉岡宗歓(そうかん)等、総勢二万の兵に鑑種討伐を命じるのです。

カテゴリー大友氏,歴史,社長

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