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豊後大友氏について(23)-高橋鑑種の謀反①

2015年2月28日

高橋家も秋月家と同じく、漢王室を起源とする帰化民族の末裔といわれる大蔵氏の出で、伝統的に「種」の文字が名前に含まれています。高橋家は元々筑後の三原(御原とも書く)郡高橋(現在の福岡県小郡市)に本拠地を構えていました。その後、高橋光種の代の1337年に下高橋(現在の福岡県三井郡大刀洗町)に居城を移し、戦国末期には大友氏の配下に入りました。そして、光種から数えて五代目の長種の代に後継ぎが無く、鎌倉時代から続く名家も断絶の危機に陥ったため、家臣たちが大友宗麟に相談し、高橋家の養子に迎え入れたのが高橋鑑種でした。時に鑑種二十歳、1550年頃だったといわれています。

高橋鑑種は元々、大友氏の有力な庶家(本家より別れた一族)で、豊後の大野郡を本拠地とする一万田(いちまだ)氏の出身です。鑑種は大友宗麟(そうりん)に幼少の頃から仕え、その武勇、知略とも極めて優れていました。宗麟の実弟晴英(はるひで、後の大内義長)が、大内家の当主に迎い入れられた際は、晴英に随行し、二年間山口で晴英の補佐をつとめています。また、1556年の小原鑑元(おばらあきもと)の乱や1557年の秋月文種(あきづきふみたね)の乱でも活躍し、その功により宗麟から、筑前の領地を与えられたため、鑑種は大宰府の地に宝満城と岩屋城を築き、ここを高橋家の本拠地とします。

このように鑑種は宗麟が最も信頼する家臣の一人でした。その鑑種が1667年、謀反を起こしたのです。

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