長嶋不動産鑑定事務所ブログ

HOME > スタッフブログ > 歴史 > 豊後大友氏について(21)-毛利氏との戦い③:門司城の戦い 第三

豊後大友氏について(21)-毛利氏との戦い③:門司城の戦い 第三

2015年2月21日

秋月文種(あきづきふみたね)と、筑紫惟門(ちくしこれかど)が大友に降伏した翌年の1558年、九州進出を執拗に狙う毛利元就(もうりもとなり)は三男小早川隆景(こばやかわたかかげ)に怒留湯主水(ぬるゆもんど)が守る門司城を再び攻め落とさせました。同時に元就は筑前・筑後の諸将を調略し、各地で大友に対する反乱を起こさせます。これを第二次門司城の戦いといいます。

翌1559年、大友義鎮(よししげ、宗麟)は北九州から毛利勢を一掃するため、田原親宏(たわらちかひろ)、田原親賢(たわらちかかた、田原紹忍)らに命じ、門司城を攻めます。大友軍は大挙して門司城を攻撃し陥落させますが、元就は、長男毛利隆元と三男小早川隆景を送り込み、再び門司城を奪還します。これを第三次門司城の戦いといいます。

これであきらめる義鎮ではありません。1561年、義鎮は毛利から門司城を奪還するため、俄然反撃にでます。田原親宏・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ、高橋紹運の兄で、吉弘統幸の父)らに15,000人の兵を率いさせ、門司城を攻撃しました。この時、義鎮は豊後府内に停泊していたポルトガル船数隻に海上から門司城を攻撃するように頼み、史上初めて外国船が日本本土を攻撃するという戦いとなりました。その砲撃はすさまじく、城壁や櫓(やぐら)は飛散し、毛利軍は生きた心地がしなかったといわれています。しかしながら、ポルトガル船は日本国内の争いに深い入りせず、いつの間にか関門海峡から消えて行きました。

これに驚いた元就は、長男毛利隆元と三男小早川隆景を再び送り込み、門司城を援護させます。

結局、大友軍は水軍の劣勢により間延びした補給路を断たれ、門司城の奪還はかないませんでした。そればかりか、退却の際、小早川隆景が指揮する水軍により多大な損害を被ることになります。これを第四次門司城の戦いといいます。この戦いは義鎮にとって、はじめての大きな敗戦となりました。

また、第四次門司城の戦いの翌年、1562年に義鎮は剃髪し宗麟と称するようになりますが、この戦いの敗戦もその一因だといわれています。

カテゴリー大友氏,歴史,社長

キーワード