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豊後大友氏について(20)-秋月文種の最期

2015年2月17日

秋月文種(あきづきふみたね)の家臣に小野九郎衛門(くろうえもん)というものがいました。その従弟で戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)の家臣であった小野和泉(いずみ、鎮幸)は、「大友の兵を古処山城(こしょさんじょう)に手引きして入れてくれたのなら、お館様(義鎮=宗麟)は恩賞として豊後の土地二万石とかねてからお前が慕っている豊前の美女を与えるといっている」という話を九郎衛門に持ちかけます。

小野和泉は、今は義鎮(よししげ)の側女となっているこの女に小野九郎衛門が今も未練を抱いているのを知っていたため、この話を持ちかけたのです。案の定、九郎衛門はこれを聞き入れ、主君を裏切り、大友軍を城に招き入れたため、天然の要害である古処山城もあっけなく落とされました。

主君秋月文種はなんとか城を脱出しましたが、後をつけていた九郎衛門は、このままでは恩賞を手にすることができないと考え、隙をみて襲い掛かり文種を討取りました。そして、その首を大友軍に差し出したのです。

それを聞いた小野和泉は「城への手引きは頼んだが、主君の首まで取れとは頼んでいない。恩ある主君の首を取り、敵に渡すとはあまりにあさましい所業なり」と怒り、家臣に九郎衛門を討たせました。そして、九郎衛門の死骸をみたものは、皆「天罰だ」とあざけたといわれています。

また、大友軍の攻撃から古処山城(こしょさんじょう)を脱出し、毛利加護のもとに成長し、その後、晴れて秋月の地に復帰した秋月文種の息子種実(たねざね)は小野九郎衛門の所業を深く恨み、帰国後、九郎衛門の一族を探し出し、皆殺しにしたといわれています。

カテゴリー大友氏,歴史,社長

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