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豊後大友氏について(18)-秋月文種の反乱

2015年2月11日

1554年の第一次門司城の戦いで大友軍に敗れた毛利元就(もとなり)は、大友に対して反感をもつ北九州各地の緒豪たちを調略し、大友の統治をかき乱す戦法にでます。

そして、元就から「大友を討てば、筑前・豊前を与える」との誘いに乗った秋月文種(ふみたね)、筑紫惟門(ちくしこれかど)が大友に対して謀反を企てます。しかし、その計画はいつの間にか大友側に漏れ、怒った義鎮(よししげ、宗麟)は1557年、戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)を大将とする二万の兵を秋月文種(ふみたね)が籠る秋月氏の本拠地、筑前の古処山城(こしょさんじょう)に向かわせます。他には高橋鑑種(あきたね)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)等がこの遠征に参加していました。

1557年7月8日から始まった大友方の総攻撃に対して、当初は善戦した秋月文種も大友の大軍には抗えず、同月12日には嫡男晴種(はるたね)とともに命を落とすこととなります。

しかしながら、この時、文種の三児(種実、種冬、種信)は命からがら古処山城を脱出し、その後、毛利氏に身を寄せました。当時14才であった種実(たねざね)を中心とするこの遺児たちが、後に大友に徹底的に抗戦し、最後まで大友を苦しめることになります。したがって、大友にとってこの時、この三児を取り逃がしたことは痛恨のミスだったといえます。

また、秋月文種とともに大友に反旗を翻した筑紫惟門は、秋月が討たれると意気消沈し、城に火を放ち、周防の毛利氏の所に落ちのびました。

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