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豊後大友氏について(14)-宗麟の時代⑩:九州六か国の守護へ

2015年1月27日

義鎮(よししげ、宗麟)は大友家の家督を継いで間もなく、豊後(現在の大分県の大部分)、筑後(現在の福岡県南部)に続き肥後(現在の熊本県)も統治下に置きますが、次に狙いを定めたのは肥前(現在の長崎県と佐賀県)でした。

肥前方面には、中国地方の周防・長門・石見の守護で、九州の豊前(現在の大分県北西部と福岡県の北東部)・筑前(現在の福岡県北西部)の守護も兼ねる西国一の大名、大内氏が進出していました。しかしながら、大内義隆(おおうちよしたか)の死後、大内氏の九州への影響力は大幅に低下し、特に肥前はこの頃、大友と大内の草刈り場となっていました。

こうした中、義鎮は経済力にものをいわせた将軍家(当時の将軍は義輝)への外交攻勢により1554年、肥前の守護職を手に入れます。

また、その翌年の1555年、大内氏に大きな事件が起こります。大内氏の最高実力者、陶隆房(すえたかふさ)が安岐の厳島で毛利元就(もうりもとなり)に討たれたのです。更に元就は、1557年、大内家を継いでいた義鎮の実弟、大内義長(おおうちよしなが)も自害に追い込いこみます。これにより、北部九州に絶大な影響力をもっていた大内氏は遂に滅亡してしまいます。

この混乱の中、義鎮は豊前・筑前の支配にも乗り出し、1559年、遂に豊前・筑前の守護職と合わせて九州探題職も手に入れました。 これにより、義鎮の領土は豊後・豊前・肥前・肥後・筑前・筑後の六ヶ国(現在の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県)となり、名実ともに九州最大の大名となったのです。

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