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豊後大友氏について(13)-宗麟の時代⑨:肥後菊池氏の滅亡

2015年1月24日

豊後の隣国肥後(今の熊本県)では、南北朝の時代前後から菊池氏が力をつけていました。菊池氏は一貫して南朝側につきましたが、南朝側が敗れるとその勢力は停滞します。その後、一族に家督相続をめぐる争いが続いたため衰退を続け、大友氏や阿蘇氏の介入を受けるようになります。大友義鎮(よししげ、宗麟)の父、義鑑(よしあき)は、肥後に対して既に大きな影響力を有していましたが、それをより完全なものにするため、1520年、弟の義武(よしたけ)を菊池家の養子に送り、肥後の守護としました。

しかしながら、義武は逆に大友家の家督を狙い大友氏と敵対するようになります。一方、当時、大友とあらゆる場面で対立していた大内義隆は、菊池氏を身方につけるため、その争いに乗じ、菊池氏がかつて任じていた筑後の守護への推挙という話を義武に持ちかけます。義武がその話に乗り、1533年、大友領である筑後に出兵したことで義鑑、義武兄弟の対立は決定的となります。義鑑は肥後への出兵を決意し、義武を追い詰めます。そして、義武はとうとう耐えられなくなり肥前島原に亡命し、さらに相良氏(さがらし)のところに身を寄せました。

こうした中、義武亡命後の1543年、今度は義鑑自らが肥後の守護となり、肥後の直接統治に乗り出します。

しかし、義鑑の肥後守護職も長くは続きませんでした。1550年2月、「二階崩れの変」が起こり、義鑑自身がが横死するのです。すると、義武は義鑑の跡を継いだ甥の義鎮(宗麟)と対立し、隈本(現在の熊本)城に戻り反大友体制を構築します。これに対し、義鎮は小原鑑元(おばら あきもと)、佐伯惟教(さえき これのり)、さらに戸次鑑連(べっきあきつら)、志賀親守(しがちかもり)ら有力武将に出兵を命じ、1550年8月、隈本城を陥落させました。その後、義武は蟄居させられていましたが、義鎮の偽りの和議によりおびき出され、府内(現大分市)に向かう途中、木原(現在の竹田市城原)で義鎮の家臣に討たれます。

こうして、1554年、肥後菊池氏は完全に滅亡しました。

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