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豊後大友氏について(12)-宗麟の時代⑧:博多の支配 第二

2015年1月20日

鎮西探題は鎌倉幕府滅亡の1333年まで続きます。鎌倉末期になると元寇の兵役に対する恩賞の少なさや執権北条家の専制政治に対して全国の武士は反感を抱くようになりました。大友氏も鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇に味方し、討幕に大きく貢献します。そして、その恩賞として、大友氏は博多の息浜(おきのはま、沖ノ浜ともいう)の統治を認められます。

中世の博多は内陸部の旧博多と北側臨海部の息浜の二つの地域からなっていました(図参照)。鎌倉時代は旧博多が中心でしたが、室町時代になると旧博多側の四千戸に対して息浜側が六千戸を数えるようになり息浜の方が発展します。

また、室町時代前期は息浜を大友氏、旧博多を少弐氏が治めていましたが、戦国時代になると少弐氏は大内氏に敗れ、旧博多は大内氏に支配されるようになります。大友氏も一時期、大内氏の攻略により息浜の支配権を失いますが、何とか持ちこたえていました。大友と大内の争いは博多の支配権をめぐる争いでもあったのです。

この博多をめぐる争いも大内義隆が自害し、1552年、義鎮(よししげ)の弟が大内家を継ぐことにより無くなり、博多全体が大友氏の支配下におかれます。

このように大友氏は鎌倉時代から室町時代の300年以上にわたり博多に強く関与してきました。また、大友氏の強固な政権は、博多をはじめとする安定した経済基盤の上に成り立っていたのです。

そして、いよいよここから義鎮は対外貿易に力を入れていきます。

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