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豊後大友氏について(11)-宗麟の時代⑦:博多の支配 第一

2015年1月17日

大内氏を義鎮(宗麟)の弟が継ぐことによって、長きにわたって続いていた大内氏との戦いに終止符が打たれました。これにより、大内氏と争ってきた博多の支配権を完全に大友氏が掌握します。この当時、博多を支配するということは、対外貿易を独占し、巨万の富を手にすることを意味します。

ここで、大友氏と博多の関係について若干補足します。

元々、大友氏は博多と深いつながりを持っていました。古くは元寇の際、大友氏三代目の頼泰(よりやす)が現場の最高指揮官に任じられ、守護の権限を越える統治権が付与され、幕府の九州支配に大きく関与しました。博多は主たる戦場であったため、元寇は大友氏の博多在住を恒常化させます。

元寇が終わると九州各地で御家人等からの恩賞請求が相次ぎ、幕府はそれを審議するための機関として1286年、博多に鎮西談義所(ちんぜいだんぎしょ)を設置しました。鎮西談義所は司法(審議)機能だけでなく、九州の御家人の統率権も有し、四名による合議制をとっていました。その四名の中に大友頼泰も含まれています(他の三名は少弐経資、宇都宮通房、渋谷重郷)。

鎮西談義所設置から7年後の1293年、大友と少弐(しょうに)の権力増大を怖れた幕府は、鎮西談義所にかわり鎮西探題(ちんぜいたんだい)を設置し、幕府への権力集中をはかりますが、大友氏は少弐氏とともに博多の幕府出先機関の官吏となることにより博多への影響力を維持し続けました。

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