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豊後大友氏について(9)-宗麟の時代⑤:二階崩れの変 第五

2015年1月10日

このように義鎮(よししげ、宗麟)が大友家の当主となった経緯はあまりにも劇的ですが、この二階崩れの変は謎につつまれています。

この事件については、①入田親誠(にゅうたちかざね)と義鑑(よしあき)の後妻が結託して、義鎮廃嫡をはかったという説、②義鑑の実弟で、肥後の菊池家当主の菊池義武(よしたけ)が大友家乗っ取りのため、入田親誠を操って、義鎮廃嫡をはかったという説(事実、菊池義武は二階崩れの変の後、反乱を起こしている)、③当時、大友氏は中国地方を本拠地とする大内氏とあらゆる所で争っていたが、義鎮の生母は大内氏の娘といわれており、大友家中の反大内派が大内氏の影響を排除するため起こしたという説、④義鎮の事件への対処の手際の良さから、義鎮陰謀説まであります。

四人の家臣は、義鑑を討つことは最初からできた点、義鑑に再度上原館に呼ばれた四人のその後の行動がまちまちである点、討ち入りした二人の家族や家臣までが犠牲になっている点から、私は、④の義鎮陰謀説はないと考えます。

いずれにせよ、義鎮廃嫡を決めたのは義鑑なので、最終的な責任も義鑑にあるというべきでしょう。当時、義鑑は豊後・筑後・肥後の守護を務め、絶頂期にあったため慢心があり、周りを冷静に見る目や家臣の気持ちを汲み思いやる心が欠けていたのではないでしょうか。

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