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豊後大友氏について(8)-宗麟の時代④:二階崩れの変 第四

2015年1月7日

義鎮(よししげ、宗麟)は、「二階崩れの変」の際、別府に湯治に行っていました。義鎮は、事件の情報収集を行った後、義鎮廃嫡計画の首謀者で、「二階崩れの変」の原因をつくった張本人である入田親誠(にゅうたちかざね)の討伐を親誠の娘婿である戸次鑑連(べっきあきつら、後の立花道雪)に命じます。戸次鑑連は主君義鎮の意を汲み、妻と離縁し親誠討伐に向かいました。そして、追い詰められた親誠は自分の妻の実家である肥後の阿蘇氏に身を寄せましたが、事件の詳細を知った義父は逆に親誠の不義を責め、これを討ち、その首級を義鎮のもとに送り届けます。

こうして、この乱は収まり、1550年2月、義鎮は大友家第二一代当主となります。

その後、入田氏は所領を失い、親誠の嫡男である義実(よしざね、宗和)は浪人の身となりますが、30年近く経った後、大友氏に帰参が許されました。しかしながら、帰参後も冷遇されたため、義鎮(宗麟)の末期、薩摩軍の豊後侵攻の折には大友家を裏切り、島津に内通し、志賀氏等の有力武将の寝返り工作に大きく関与することになります。

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