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豊後大友氏について(6)-宗麟の時代②:二階崩れの変 第二

2015年1月3日

大友家第二十代義鑑(よしあき)には三人の息子がいました。長男が義鎮(よししげ、後の宗麟)、二男が晴英(はるひで、後の大内義長)、三男は塩市丸(しおいちまる)といいました。このうち、塩市丸は後妻の子供でした。義鑑は、わが子かわいさの妻(後妻、義鎮の継母)及び義鎮の教育係であった入田親誠(にゅうたちかざね)の意見を入れ、まだ幼い三男の塩市丸を跡取りにしようとします。義鑑自身も激しい性格の義鎮を疎んじていたのかもしれません。しかしながら、家臣の大方の意見は、跡取りは長男の義鎮というものでした。そこで義鑑は一計を案じ、1550年2月、老臣の斉藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐の四人を上原館(うえのはるやかた)に呼び出し、「義鎮を廃嫡し、家督を塩市丸に譲る」旨を言い渡します。すると、「そんなことをすれば、お家騒動のもとになる。この暴挙は入田親誠の陰謀である」と四人はそろって猛反対し、退席しました。義鑑はもちろん激高します。大友家の行く末に極めて重大なこの話を、主君に面と向かって反対したこの四人の家臣を許すわけにはいきませんでした。そして、義鑑は上原館に再度この四人を呼びつけ殺害しようとしたのです。

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